司馬さんのこと(2)



司馬遼太郎の世界:

先月 司馬さんのこと(1)で 養老孟司先生が”普通の日本人は司馬さんの本を読むと安心する”と述べておられることをご紹介しましたが

宗教学者の山折哲雄先生も NHK文化講演会で  “司馬遼太郎の文学が読まれている限り、日本人の心の中にモラルは生き続けている。

司馬遼太郎の魂に触れることは日本人の魂に触れることである”と云っておられます     (ソニーミュージックCD 司馬遼太郎の世界)

なお余談でありますが 上記CDの山折先生の講演の中には 司馬さんから聞いた話として会津松平の「王城の護衛者」を書き終わったとき高松宮妃(徳川慶喜の七男の次女)と秩父宮妃(松平容保の四男の長女)から宮中で食事に招待された話なども紹介されています

菜の花の沖:













さて 菜の花の沖に戻りますが この小説の主人公 「高田屋嘉兵衛」について司馬さんは”江戸時代を通じて一番偉かった人”と言っています (1985年5月 洲本市民会館 講演記録 週刊朝日増刊)

「高田屋嘉兵衛」は 明和6年(1769年) 淡路島都志で農民の子として生まれ漁業に従事します  18才で廻船業者を志して兵庫に出て

水夫から船頭になり 1795年庄内で千七百石積の辰悦丸を建造して 廻船業・蝦夷地経営に乗り出します

幕府役人 近藤重蔵や最上徳内らと交際 幕命により択捉航路を開くなどによって 北洋漁業の基盤を作り 函館港を開きます

1812年国交をめぐる緊張から生まれたロシア艦艦長ゴローニン逮捕の報復として副艦長のリコルドに捕らえられカムチャッカに連行されますが ロシア側の信頼を得 民間人でありながら代表的立場で折衝

ゴローニンの釈放や事件の平和的解決に功績を上げますが帰郷後 文政10年(1827年)59才で死去します

この 「高田屋嘉兵衛」の生涯を司馬さんは昭和54年4月から57年1月まで1014回の長きに亘り産経新聞に”菜の花の沖”として載せました

取材した淡路島で菜の花が植わっていたこと  六甲山の斜面の水流を動力として生産された菜種油が北前船で運ばれていたことがタイトルの由来になっているようです

当時の船の設計や航海術について またロシア史が延々と続くので関係者が困惑したとの話も伝わっています

物語の原典はゴローニンの「日本幽囚記」ですが 司馬さんはこの書物を通じ日本人「高田屋嘉兵衛」の生きかたに深い感銘を受けたと思われます        (菜の花の沖カバー右上・高田屋嘉兵衛肖像下)



菜の花の沖と私:












































青森に赴任し 北前船について興味を持った私は東京にでた折 東京八重洲口のブックセンターで「菜の花の沖」全六巻を一括買い求め宅配便で直送、読みふけりました

北前船の人々が篤く信仰し航海の安全を祈願した青森深浦町の円覚寺には 嘉兵衛の弟金兵衛が 捕らえられた嘉兵衛の無事を祈願し、無事帰着にお礼として奉納したギヤマンの品があり拝観に行きました

北海道函館市は高田屋嘉兵衛が基礎を造った街ですが市内に”函館高田屋嘉兵衛資料館”があり関連資料が展示され ビデオなども売っています 平成11年5月 訪れました

淡路島の五色町は高田屋嘉兵衛の故郷ですがここには高田屋嘉兵衛翁記念館と高田屋嘉兵衛公園があります 関西に帰った直後 自分の車で明石海峡大橋を渡り訪問しました

関西に帰り時間の余裕も生まれると 司馬さんにまつわる行事にも参加できるようになりました「菜の花忌」や「司馬遼太郎記念館友の会」などです 司馬さんのこと(3)で取り上げます

目次(その2)

目次(その3)

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